恒産(こうさん)なくして恒心(こうしん)なし
この言葉は、紀元前の中国の儒学者「孟子」の教えの一つが切り取られて伝わっているものです。
すごく簡単にいうと「当たり前の財産がないと当たり前の心は持てないよ」という意味で、私はこの言葉がとても好きです。
「衣食足りて礼節を知る」というのが類義語で出てきますが、「着るもの、食べるものがあって、礼儀作法はそこから後の話だ」ということですね。あとで講釈をするのですが、意味としてはそっくり一緒だと思います。ですが、意味は同じでも、私にとってしっくり来るのはこの「恒産恒心」なんですね。
私がこの言葉を好きなところ
私がこの言葉を好きなのは、財産を持つことの肯定になっているからなんです。
「お金なんて」「お金は汚いもの」という風潮は、いつも何となくありますし、「清貧」なんて言葉があるように、貧しいことに逆にプラスの意味が与えられたりもします。
でも、「クリーン」なんて言葉に拘っていると、大事なことを見逃すと思いますよ。
大事なのは「心の持ち方」で、それを支えるのが一定の財産だと思います。もちろん「心の持ち方」を大事に出来るのであれば財産に拘ることもないですけれどね。
「人として当たり前の心を持つためには一定の財産が必要だよ」という財産肯定の言葉は、案外少ないような気がします。
本当は民のことをあまり良く言っていない言葉
教科書的な言い方をすると、孟子が言いたかったのは、
「一定の財産を持たずに当たり前の心を持てるのは、我々のような学問修養を身に付けたもの位であって、一般の民は財産を持たなければ当たり前の心は保てない。だから民が一定の財産を持てるような政治をしなければ世は安定しない」
というような教えになります。
上に書いた「衣食足りて礼節を知る」が同じ意味なのも、「民に礼節を大事にさせたいなら、まず衣食を」という政治の教えとしての意味を持っているのですね。
「教え」としては分かるのですが何だか釈然としない感じがしませんか?
孟子は、孔子と並ぶ儒教の大先生ですし、儒教というのはそういう性質を持っているものだと思うので、いきなり現代から私が「釈然としない」と言っても「そりゃそうでしょう」という話ですよね。この教え、言葉が2千年以上残って、今も有効な部分があるという点で十分すぎるほど偉大ですね。
この言葉が有効かどうかとは別に、「当たり前の財産を持っていても当たり前の心が持てない人がいる」なんて現実もありますね、孟子が生きていたらどのように表現するんだろうという思いもあったりしますね。
今日は少し小難しい話でスミマセンが、「自分の大切な言葉」ということでご容赦ください。
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