藤原喜明選手の想い出

プロレス

地味な中堅レスラーから抜け出せなかった低迷期を脱出

今回ご紹介するのは、藤原喜明選手。
板前やサラリーマンなどの経験があり、23歳の時、1972年新日本に入門してデビューしています。

同期よりも少し年齢が上でしたし、腕や足が細く見えた藤原選手は「地味」というレッテルを貼られ、実力は認められながらも、しばらく前座・中堅の座に甘んじることになりました。

そんな藤原選手が一気に知名度を上げたのは1984年2月の札幌大会。
試合に臨む長州力選手を襲い、当時の超人気カード「藤波・長州戦」をぶち壊してしまうのです。
試合は「無効」となり、藤波選手が「こんな会社やめてやる」と会場を飛び出したというエピソードも大変有名ですね。

あまり乱闘とか好きではないんですけど、この「事件」がきっかけで、藤原選手が毎週のようにテレビに出るようになったのは間違いないです。
当時は、「長州さんにやたら絡んで試合をぶち壊す人」という印象しか残らなかったですが、ただ知名度を上げるだけでなく、そのチャンスを掴み切ったのは、これまでの「実力派」の積み重ねがあればこそだったと思います。

アントニオ猪木の用心棒、カールゴッチの愛弟子

急激に知名度が上がった藤原選手ですが、
「藤原選手ってどんな人?」
というのが知られれば知られるほど、

猪木さんの次に本当に強いのは藤原なんじゃないか

というイメージが、どんどん膨らんでいきました。
もちろん新日本プロレスは多士済々、素晴らしいレスラーが当時も沢山いましたが、

「藤原選手は本当の実力者」

のように売り出していくことで、プロレスの深みがさらに増していったように思います。

新日本プロレスに道場やぶりに訪れる人間の対処をしたり、猪木さんの重要な海外遠征に帯同したりといった「アントニオ猪木の用心棒」というイメージもすっかり有名になりました。

得意技「ワキ固め」や「アキレス腱固め」などはもちろん、これまであまり知られていなかったヨーロッパ由来の様々な関節技も、藤原選手が使うことでその魅力を増していきました。
そのことによって、師と呼べる存在「プロレスの神様・カールゴッチ」さんの名をさらに高めていったと言えると思います。

ゴッチの弟子である藤原は強い⇒藤原の師であるゴッチはもっと強いはず

の図式が出来上がっていったんですね。もちろんゴッチさんの名前はその前から有名でしたが、藤原選手の活躍、UWFのブレイクがその神格化にダメ押しをした印象です。

藤原選手は、ブレイク直後に新日本プロレスの流れを汲む第三の団体UWFに参加することになりますが、ここでの活躍によって、さらにその名を高めていきます。
初代タイガーマスクの佐山サトル選手、前田日明選手ら強豪選手を様々な関節技で仕留めるのですが、「ゴッチの弟子たちによる争い」の中でも、特に関節技では一歩抜きん出た存在というのが藤原選手だったと思います。

入場テーマ曲「ワルキューレの騎行(きこう)」は抜群に合います

「地味」だった藤原選手ですが、この入場曲は抜群に盛り上がります。

この曲は、ドイツの作曲家ワーグナーによるものですが、ブレイク前から使用していたそうです。
ドイツともベルギーの出身とも言われるカールゴッチさんですが、その弟子であることに誇りを持っている藤原選手には、このドイツの有名作曲家ワーグナーの壮大なテーマがピッタリ来たということなのでしょう。

プロレスラーの入場テーマ曲には様々なアプローチがありますが、このように真っ直ぐクラシックを使用してドハマりするというのは、どんなレスラーでも出来るものでありません。
それに相応しい力量がレスラーにあって、初めて「イメージピッタリ」ということになるのだと思います。

関節技の鬼、レスリングマイスターは生涯現役!?

藤原選手は、その実力は認められながらチャンピオンらしいチャンピオンにはなっていません。

「チャンピオンベルトなんか要らない」

というのがテーマだったUWFで活躍された影響もあったと思います。

その代わりに「関節技の鬼」「レスリングマイスター(職人、親方)」という称号が得られました。

藤原選手は、2007年に胃ガンの手術をされました。
大変な大病をされた訳ですが、驚異的な回復で71歳の現在もリングに上がられています。

「明日のことは分からない」に類する言葉をよく口にされる藤原選手ですが、「引退」の日は来ないのかも知れません。生涯現役の「職人」の生き様を今後も見させて頂きたいと思います。

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もんた心(こころ)のブログ

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