ラッシングパワー!
最初に「ラッシャー」って何だと思うんです・・・
たけし軍団・ラッシャー板前さんは、このラッシャー木村選手から付けられた名前です。プロレスをあまり知らない方は、板前さんだけご存知かも知れませんね、板前さんも随分息の長い芸人さんですもんね。
木村選手の本名は木村政雄さん。大相撲出身で1965年日本プロレスでデビュー、東京プロレスから国際プロレスに移籍して1969年にこのリングネームにしています。
諸説あるとは思うのですが、ラッシングパワー、ラッシュ(圧力)をかける力が強いみたいな意味合いで名付けられたと紹介されていたのを信じています。
テレビで初めて見た時から最後までずっと黒のロングタイツを身に付けており、自分の中では「力道山っぽい」という印象を持っていました。
金網デスマッチの鬼
木村選手のキャリア上の最盛期は、国際プロレスのエースであった1981年までのことでしょう。金網に限らず様々なデスマッチを経験し、それに勝利してきました。
国際プロレスは、新日本プロレス、全日本プロレスに次ぐ3番手的な団体で、最初はTBSだったようですが、テレビ東京で中継もしており、映像も残っています。珍しい外国人選手を呼んだり、このようなデスマッチですとか、アイデア勝負的な取り組みが多かったようで、残念ながらビデオでしか見たことありませんが、今見ても興味深い対象です。
国際プロレス崩壊後は、新日本プロレスに参戦。私はここで初めて木村選手を見たので、「何だかよく分からないけど猪木さんに絡む選手たち」という印象しか持てませんでした。その後、ほんのわずかの期間ですが、前田日明選手らと、UWFで行動をともにします。
全日本時代も激しい戦いを残しています
私が勝手に思うのは、キャリア上は国際プロレス時代が最高であっても、この全日本プロレス時代のジャイアント馬場さんとコンビを組んでいた時期が一番充実していたんじゃないかということです。
3才年上の馬場さんを「アニキ」と呼んで、連日マイクパフォーマンスで受ける姿はユーモラスではありましたが、新日本時代よりもイキイキしてプロレスをしているように見えました。
馬場さんとのコンビですから、メーン近くで戦うことも時にはあり、トップ選手と星取りをして争う年末の「最強タッグリーグ」なんかはとてもワクワクして見ていました。相手をリードする鮮やかな動きというのではありませんでしたが、力強いゴツゴツしたファイトと、相手の攻撃に必死に耐える体の丈夫さというのが、心を熱くさせてくれました。
後半は見ているだけで優しい気持ちに
ジャイアント馬場さんがそうだったんですけど、「試合をしてる馬場さんを今日も見れた」というのが、私が行っている時期の全日本プロレスに流れている空気でした。
その馬場さんが1999年に亡くなり、2000年新団体ノアの旗揚げに参加した木村選手ですが、そのファイトは流石に動きがしんどそうになっていました。それでも、試合をしている木村選手を見て、マイクを聞いていると、割と殺伐としがちだった会場の空気も穏やかになり、「ああ、今日もプロレス会場に来たな」としみじみ思ったものです。
木村さんは2010年に亡くなっていますが、「マイクで会場の笑いを誘う」プロレスラーになるなんてきっとご本人も考えていなかったと思うんです。ゆっくり穏やかに休まれておられますように 。
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