鶴見五郎選手の想い出

プロレス

「はぐれ」「独立」のイメージ強い一匹狼

本日ご紹介する鶴見五郎選手も国際プロレス出身のプロレスラーです。

鶴見選手は1971年国際プロレスでデビュー。ヨーロッパ、メキシコと海外遠征で実力を蓄えて帰国。団体の都合で悪役に回りますが、その実力は本物で、徐々にメーンクラスへ。国際プロレス最後の試合のメーンイベントを務めたことでも知られています。順番でメーンを務め、金網デスマッチをやっていたということですから、崩壊直前の団体というのは結構厳しいものがあったんでしょうね。

鶴見選手の経歴は明らかではあるのですが、不可解というか謎が深いものがあります。レスリング部のない大学でレスリングをやっていたというのも謎ながら、そのままプロレスラーになるという道を歩んだのも、独特です。でも、それが鶴見選手です。その後のレスラー人生も独特でした。

既に一人だった「国際血盟軍」

私が初めて会場で鶴見選手を見た時は、この「国際血盟軍」と紹介されていました。「軍団」なのですが、一人しかいないのです。

先日ご紹介したラッシャー木村選手も確かに「国際血盟軍」の帯がかかっていたと思うのですが、既にジャイアント馬場選手との抗争が終了して、毎日「アニキ~」のマイクパフォーマンスが定着し始めた頃です。国際どころか「(馬場)ファミリー軍団」が出来上がろうとしていたんですね。

そんな流れの中ですから、鶴見選手のファイトはただただ異色でした。日本人ヒール(悪役)というのも、全日本では珍しい存在ですし、突如裏拳を出したり、キレイなスープレックスを繰り出すファイトスタイルも、「この選手はどうしてこの場でこんなプロレスをしているんだろう、でも面白いから良いか」というのが私の感想でした。

青果市場行ったことがあります!

全日本を離れた後、SWSなどを経て、自身の団体「国際プロレス(プロモーション)」を興します。ここでもレスラーらしいレスラーというと、印象に残るのは鶴見選手一人の活躍です。本家・国際プロレスと規模は違いますが、アイデア一杯で奮闘されたんですよね。

マミー(包帯グルグルの怪人レスラー。力道山時代に来日して話題になったが、もちろん中身は違う人)との闘いが一時局地的に人気を集め、私も会場に行ったことがあります。その会場が、青果市場だったんですね。市場(いちば)プロレスとか言ってもてはやされました。私は茅ケ崎に行ったのですが、帰りの道に迷ったことが一番の想い出になってしまいました。

鶴見選手のレスラー人生を振り返ると、本物の「インディペンデント(独立)」レスラーだったんだな~という感想を持ちます。「自分で行動する」プロレスラーでした。人任せなところがあまり見えないです。高木三四郎さんですとか、何人かのインディペンデントの歴史には欠かせないレスラーを育てていったのも鶴見選手ですし、そういう意味でも歴史に名を残すレスラーなのではないかと思います。

国際プロレス時代、給料の未払いが最高額だったという逸話を持つ鶴見選手ですし、全日本時代も、団体に所属するのではなくフリーランスの立場を通したは、頼れるのは「自身のプロレス」と「週(試合)ごとに支払われるファイトマネー」だったのかななんて、今から見る私には思えます。

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